2024年10月18日(金)
日本の危機を予言をした僧侶その3
こんにちはKeePerプロショップ中田島下りの久野でございます。
さて、日蓮大聖人の生涯の最終回でございます。
~身延山へ~
大聖人は、3度目の諫暁も幕府が相手にしなかったため、日蓮大聖人は鎌倉を離れることを決意し、甲斐国(山梨県)波木井郷の身延山に入られました。身延の地は、日興上人の教化によって大聖人の門下となった波木井六郎実長が地頭として治めていました。
大聖人は、文永11年(1274年)5月に身延に入られました。しかし、大聖人の身延入山は、決して隠棲(俗世間から離れて静かに住むこと)などではありませんでした。
身延において大聖人は撰時抄(せんじしょう)報恩抄(ほおんしょう)をはじめ、数多くの手紙を執筆されて、大聖人の仏法の重要な法門を説き示されました。特に、三大秘法(本門の本尊(ほんぞん)、本門の戒壇(かいだん)、本門の題目)を明らかにされました。
さらに、法華経の講義などを通して、未来を担う人材の育成に全力を注がれました。
また、各地の男性・女性の在家信徒に対し、数多くのお手紙を書き送って励まされています。一人ひとりが強盛な信心を貫き、人生の勝利と成仏の境涯が得られるよう、懇切に指導・激励を続けられました。

~弟子の危機~入滅~
日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国(静岡県中央部)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて、大聖人に帰依するようになりました。
そのために、地域の天台宗寺院による迫害が始まり、大聖人に帰依した人々を脅迫する事件が次々に起こりました。
弘安2年(1279年)9月21日には、熱原の農民信徒20人が、無実の罪を着せられて逮捕され、鎌倉に連行されました。
農民信徒は平左衛門尉の私邸で拷問に等しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。
そして、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残る17人は居住する地域から追放されました。
農民信徒たちの不惜身命(ふしゃくしんみょう:仏道修行のためには身命を惜しまないこと)の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に著された聖人御難事で、立宗以来、二十七年目にして、大聖人自身の出世の本懐(しゅっせいのほんかい)を示されました。出世の本懐とは、この世に出現した目的という意味です。
日蓮大聖人は、若き日に、仏法の肝要を知る智者となって、すべての人を苦悩から根本的に救うという誓願を立てられます。この誓願の成就が御生涯をかけて目指された根本目的であると拝されます。大聖人は、万人成仏の根本法である南無妙法蓮華経を説き、本門の本尊と本門の戒壇と本門の題目という三大秘法を明かし、未来永遠にわたる法華経教えを広める基盤を確立されました。
この弟子の危機において、三大秘法の南無妙法蓮華経を受持して、不惜身命の実践で法華経教えを広めようとする民衆が出現したことにより、世界の人々を救うための日蓮大聖人の民衆仏法が現実のものとなりました。
このことにより、生涯をかけた根本目的、出世の本懐を達成されたのです。
また、この弟子の危機において、大聖人門下は異体同心の信心で戦いました。特に、近隣の地頭であった青年・南条時光は同志を守るなど活躍しました。
そして、弘安5年(1282年)9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くとして、9年住まわれた身延山を発たれました。その後、 武蔵国池上(東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在されると、後事について種々定められました。
9月25日には、病を押して、門下に対し立正安国論を講義されたといわれています。
そして、弘安5年(1282年)10月13日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で、法華経の行者として生き抜かれた61歳の尊い生涯を終えられました。
さて、3回にわたり日蓮大聖人の生涯についてお送りしましたが、いかかがでしたか?
この方の人生は、ほぼほぼ安寧の時がありません。
一番最初の問いになぜここまで、危機が訪れるのか?
その答えは、このお方が、法華経を正しい教えだと確信し、間違った教えを改めさせていった結果、間違った教えを信じる者に迫害されました。
現代の私達も、似たような事はないですか?
正しい事をしようとすると、誰かが間違った方向へ誘導しようと惑わしてくる時。
でも、そこで迷ったら、負けて間違った方向ずるずると、入ってしまいます。
しかし、そのように間違った方向へ誘導してくる人が現れたのなら、自分が正しいと思い自分を貫くと自身の成長や
考え方も変わりますので、そのような事があったら、自分を信じてみてください
それでは、また火曜日にお会いしましょう。
