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浜松中田島下りTS

株式会社ENEOSウイング 東海支店

  • 2024年10月

2024年10月15日(火)

日本の危機を予言をした僧侶その2

こんにちはkeeperプロショップ中田島下りの久野でございます。

さて、今回は前回に続き日蓮大聖人の生涯についてです。

~竜の口の危機~
前回の最後に、
日蓮大聖人が母親を見舞いに行った翌年の文永元年(1264年)11月11日に、大聖人の一行は、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出てしまいました。
そして、4年後の文永5年(1268年)、蒙古(モンゴル帝国)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。立正安国論で予言した他国侵逼難が、現実のものとなってきたのです。
そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11カ所に書状を送り、予言の的中を明示するとともに、諸宗の僧らに公の場での法論を迫りました。
しかし、幕府も諸宗も、
大聖人のはたらきかけを黙殺しました。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧に向かっていったのです。
文永8年(1271年)夏に大旱魃(長期間の日照り)が起こった時、良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
それは、もし良観が7日のうちに雨を降らせたなら、
大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は祈祷の7日延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
しかし、良観は自らの敗北を素直に認めず、
大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちにはたらきかけて、権力による弾圧を企てました。
2日後の文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉が武装した兵士を率いて草庵を襲い、大聖人は謀叛人(時の為政者に叛逆する人)のような扱いを受けて捕らえられました。この時、大聖人は、平左衛門尉に向かって「〝日本の柱〟である日蓮を迫害するなら、必ず自界叛逆他国侵逼の二難が起こる」と述べて、強く諫暁されました(第2回の国主諫暁)。
大聖人は、夜半に突然、護送され、鎌倉のはずれにある竜の口(たつのくち)に連行されました。平左衛門尉らが、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から〝まり〟のような大きな光りものが夜空を北西の方向へと走りました。兵士たちはこれに恐れおののいて、刑の執行は不可能となりました。
この
竜の口の出来事は大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という迹(仮の姿)を開いて、凡夫の身に、生命にそなわる本源的な、慈悲と智慧にあふれる仏という本来の境地(本地)を顕されたのです。(人から仏になる。)
これを発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)といいます。
佐渡の流罪

竜の口の危機後のしばらくの間、幕府は大聖人への処遇を決められず、約1カ月間、大聖人は相模国の依智(神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門重連(佐渡国の守護代)の館に留め置かれました。その間、放火や殺人の罪が門下に着せられるなど、さまざまな弾圧が画策されました。
結局、佐渡の流罪(現在の新潟県の上にある島)と決まり、
大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(壁のない柱と屋根だけの家)に入りました。大聖人は、厳寒の気候に加えて、衣類や食料も乏しい中、佐渡の念仏者などから命を狙われるという厳しい状況に置かれたのです。
弾圧は、鎌倉の門下にも及び、土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けたりします。そして、多数の門下が、臆病と保身から、
大聖人の仏法に疑いを起こして日蓮宗を辞めてしてしまいました。
翌・文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく北陸・信越などから諸宗の僧ら数百人が集まり、
大聖人を亡きものにしようとしました。本間重連に制止され、法論で対決することになりました。大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました。
2月には北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動、北条時輔の乱)。
大聖人竜の口の際に予言された自界叛逆難が、わずか150日後に現実になったのです。
同年初夏、
大聖人の配所は、塚原から一谷に移されましたが、念仏者などに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。
この佐渡流罪の間、日興上人(にっこうじょうにん:
大聖人の一番弟子)は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。また、佐渡の地でも、阿仏房(あぶつぼう)千日尼(せんにちあま)夫妻をはじめ、大聖人に帰依する人々が現れました。
大聖人は、この佐渡の地で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が「開目抄」と「観心本尊抄です。
文永9年2月に著された「開目抄」は、日蓮大聖人こそが法華経に予言された通りに実践された末法の「法華経の行者」であり、末法の衆生を救う主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされています。
また文永10年(1273年)4月に著された「観心本尊抄」は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かされています。
文永11年(1274年)2月、
大聖人は赦免され、3月に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。
4月に平左衛門尉と対面した
大聖人は、蒙古調伏の祈禱を真言などの邪法によって行っている幕府を強く諫めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて、蒙古の襲来は必ず年内に起こると予言されました(第3回の国主諫暁)。
この予言の通り、同年10月に蒙古の大軍が九州地方を襲ったのです(文永の役)。
これで、立正安国論で示された自界叛逆難
他国侵逼難の二難の予言が、二つとも的中しました。
今回はここまでですが、一番の危機の
竜の口で、処刑を免れたのは大聖人だけだと言われています。
人は、生まれる時にやらないといけない使命を持って生まれてきます。
その
使命を終えた時もしくは、尽きた時はが失う時だと思います。
そして、
大聖人は自分の使命がまだ終わっていないので殺されることはなかったのです。
私達も、自分のやるべき使命が何なのかがわかれば、もっと強く、明るい人生になると思います。
そして、次回が最後の生涯です。
どんな結末になるかお楽しみに!
それでは、また金曜日にお会いしましょう。

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