こんにちはkeeperプロショップ中田島下りの久野でございます。
今回は、コチラをご紹介します。
京都御所です。
平安時代から幕末まで、日本の中心で、天皇が住まわれていた場所です。
794年の平安京遷都から千年の間日本の首都として栄えました。
しかし、御所の位置は、遷都当時より東に移っていて、理由は西側は雨が降ると土地が水に浸かって
しまう為人が暮らせる土地ではなかったみたいです。
ところで、平安時代と言えば、真っ先に出てくる一族が藤原氏です。
その藤原氏は、飛鳥時代の中臣鎌足(藤原鎌足)を祖として、その息子の不比等くんに受け継がれ
その息子4人がそれぞれの分家(北家・南家・京家・式家)を作っていきます。
その中でも、北家が一番力を持ちその中でも、賢人右府(けんじんうふ)と呼ばれた
藤原実資(ふじわらのさねすけ)という人物を知っている人はあまりいないとは思いますが
とにかく曲がったことが嫌いな人物なんです。
この人が藤原実資です。
957年に藤原北家に生まれましたが、三男だったため、家督は相続はできなかったが、
祖父の養子になり、藤原北家の嫡流小野宮家を相続しました。
この時に、祖父から歴史・文学・朝廷の儀礼・しきたりなどを記した有職故実(ゆうそくこじつ)
を受け継ぎ、朝廷内で群を抜く知識人になりました。
性格も公平な判断をする人物で、歴代天皇からの信頼が厚く、蔵人頭(くろうどのとう)(朝廷の秘書長)
を何度も就任し着実に出世をしていきました。
そして、この当時頭角を現してきたのが、藤原道長ですが、権力を怖がり道長サイドのに付く貴族が
多くいる中実資は中立の立場で居続けます。
あの権力者の道長にでも屈せずに唯一意見の言える人物です。
そして、1019年に、刀伊の入寇(といのにゅうこう)という、外国から攻められる事件が太宰府から
届き、朝廷内は大混乱!!
慌てて、討伐の勅使を送るものの、勅使が届いたころには既に撃退した後、そして太宰府側から
恩賞の話が来た時には、勅使の届く前なので恩賞はなしと渋りましたが、
実資が、「勅使の来る前に撃退して恩賞がないのであれば今後、国の為に戦ってくれるものがいなくなる」
と朝廷側に猛抗議!!
朝廷内も考えを改め恩賞を出したそうです。
1021年に太政大臣・左大臣に次ぐ右大臣になり、1046年に90年の生涯を終えました。
この人は、権力者に屈せず、いい所は認め、悪いところは意見するという所は
現代人の私達にもなかなかできることではないですし、公正な目を持つ所も
見習うべきだと思いました。
この人が記した小右記(しゅうゆうき)という日記がなければ、平安時代は謎の時代になっていたかもしれません。
こういった、歴史の人物は、あまり知られていない人物が、人生の教訓になることが多々ありますので
皆さんも、気になる人物がいれば調べてみると、人生の糧になることがありますよ‼